教えのやさしい解説

大白法 525号
 
法華折伏・破権門理(ほっけしゃくぶく・はごんもんり)
 天台(てんだい)大師が『法華玄義』に示された言葉で、「法華は折伏にして権門(ごんもん)の理(り)を破す」と読みます。法華経は仏の真実の教えであり、その経体(きょうたい)そのものが方便の爾前権経(にぜんごんきょう)を破折し斥(しりぞ)けるという意味です。
 折伏とは破折屈伏(くっぷく)の義で、あくまで邪法の存立(そんりつ)を許(ゆる)さず、その非(ひ)を責(せ)めて正法に帰伏(きぶく)せしめる教化(きょうけ)方法をいいます。これに対して摂受(しょうじゅ)とは摂引容受(しょういんようじゅ)の義で、たとえ衆生に違法(いほう)があったとしてもそれを仮(かり)に容認し、徐々(じょじょ)に浅(せん)から深(しん)へと導いて真実に至(いた)らしめる教化方法をいいます。折伏は慈父の厳訓(げんくん)、摂受は悲母の愛訓(あいくん)に譬(たと)えられます。
 右文(みぎもん)の次下(つぎしも)に、「涅槃(ねはん)は摂受にして更に権門を許す」とあるように、天台は教門に約して涅槃経と法華経を対比(たいひ)し、涅槃経を摂受門、法華経を折伏門と判(はん)じました。涅槃経は法華経で得脱(とくだつ)できなかった衆生に対して、重(かさ)ねて随他意(ずいたい)の三乗を用(もち)いて一仏乗へ帰入せしめる「拾(じゅう)」の内容を持つので摂受門であり、法華経は三乗を用いずに直(ただ)ちに随自意の一仏乗を説くので折伏門と説かれたのです。
 また、『法華文句(もんぐ)』では、涅槃経で説く弓(ゆみ)を持ち箭(や)を帯(たい)しての悪人摧伏(さいぶく)と、法華経『安楽行品』の四安楽行(しあんらくぎょう)等を行門(ぎょうもん)の上から対比し、涅槃経を折伏門、法華経を摂受門に配(はい)し、その摂受柔化(じゅうけ)・折伏剛化(ごうけ)の用捨(ようしゃ)は「適時(ちゃくじ)而已(じい)」、すなわち時(とき)に適(かな)って衆生を利益(りやく)するのみであると説いています。
 このように天台は、折伏を経体とする一仏乗の法華経が諸経の中で最も第一であることを説きましたが、
『百六箇(ひゃくろっか)抄』に、
「天台は摂受を本(ほん)とし折伏を迹(しゃく)とす。其(そ)の故は像法は在世(ざいせ)の熟益(じゅくやく)冥利(みょうり)の故なり」(一六九一頁)
とあるように、本已(ほんい)有善(うぜん)の衆生に対する熟脱の化導(けどう)がその任(にん)であるために、天台は摂受を本(ほん)として法華経を弘通したのです。
 これに対して、末法御出現の日蓮大聖人の御化導においては、「百六箇抄』に、
 「日蓮は折伏を本とし摂受を迹と定む。法華折伏破権門理とは是(これ)なり」(一七〇〇頁)
また『開目抄』に、
「夫(それ)、摂受・折伏と申す法門は、水火(すいか)のごとし。火は水をいとう、水は火をにくむ。摂受の者は折伏をわらう、折伏の者は摂受をかなしむ。無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前(さき)とす、安楽行品(あんらくぎょうほん)のごとし。邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす、常不軽品(じょうふきょうほん)のごとし」(五七五頁)
と説かれているように、折伏こそが末法弘教(ぐきょう)の方軌(ほうき)であり、一期(いちご)御化導における忍難弘教は無論のこと、その目的たる三大秘法の御建立の意義がそのまま折伏に当たるのです。
 すなわち、総本山第二十六世日寛(にちかん)上人が『観心(かんじんの)本尊抄文段(もんだん)』で、「法体(ほったい)の折伏」と「化儀の折伏」とを御指南されていますが、「法体の折伏」たる三大秘法の御建立は、本門以下、外道(げどう)に至る一切の教えを破折することに当たるところが「法華折伏破権門理」の真義(しんぎ)です。
 そして「化儀の折伏」は、三大秘法の正法正義(しょうぎ)をもって邪宗邪義を破折し、広宣流布に向かって闘う、地涌(じゆ)の菩薩たる我等の実践にあるのです。